昭和51年07月12日 朝の御理解
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えぬおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。
金光様の御信心をだんだん続けて居りますと、細うても長ごう続くという事が繁盛と仰る様に、続いておるという事が、なんとはなしにおかげを頂いておる。何とはなしに繁盛につながっておる、その辺の所がもうそれこそ口には言えない、何とも言えない有り難い所です。何とはなしに「目のめきざん」に、例えば御利益が現れると。言った様な事もありましょう、けれどもやはり信心を続けておりますと、もう様々な事があります。様々な事も受けて行かなければなりませんけれども。
だんだん信心を続けておりますとです、その様々な事の全てが、はぁあれもおかげじゃなぁと、あの事のおかげじゃったなぁという程しにです、何とはなしに全てが整うてくるし、全てがおかげになってくるし、全てが何とはなしの繁盛につながる事を、お互いが体験するだろうと思います、信心を続けて行けば。だから本当の信者という事はそう瞬く間に分かるとか、出来ると言う事はないと思う。
しかもその続けておる信心というのがです、信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多いと言う事がね、だんだん分かってきて、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰る事は、何でもかんでも有り難い有り難いと受けて行けば、いうならば有り難いおかげに必ずつながって行くという事なんです。だから金光様の信心は、やっぱり何というても本当に有り難い有り難いの、日々を過ごさせて頂くいわば稽古をしなければいけません。
目に見えて又は気付いて、はぁおかげであったとすぐ感ずる事があります。けれども目に見えないおかげというのはどう言う事かというと、私は神様の御働きそのものだと思う、いうならば自然の働きそのものだと思う。眼には見えないでしょう形には分からない。けれども神様の働きはもう四六時中、いつもずうっと私共の上に受けておる訳です。ここんところに気付かせて頂く、神様の働きを受けておると言う事、暑い事も寒い事も、それは暑かれば寒かれば肌で感じますよね。
感じますけれども形には見えない、だからその働きそのものの大元であるところが、神様であり神様の働きなのです。だからその事に対して、だからお礼がいえれる様になるとだんだん有り難い。そこでなら有り難いと思うだけではなくて、それを一つ姿形に現してです拝む事です。拝めば必ず拝まれる。拝めば拝み返されるというところにです、素晴らしいおかげの展開があるのです。拍手して拝む時だけ御神前に出た時だけが拝むのじゃない、神様の働きそのものを拝む。
最近便所を拝んで大変おかげを受けておる方達があります。それは本当に不思議な働きが起こってくる。久留米の稲垣さんの御親戚、御姉妹でその話を聞かれて、そのうそこが共同便所らしいんですよね、だからいつも汚い。誰かがするじゃろう誰かがするじゃろうというて、尻比べばっかりしてから皆んながせん訳です。だから姉さんの稲垣んから「便所のお掃除をしなさい」と、「あんたの病気はそれでようなるがとおかげ頂かんの、今合楽では皆がそれでおかげ頂きよるけん」といううてまぁ進められて。
ならば本気で一つさせて頂こうかと。あれは自分方の便所なら奇麗にするばってん、共同便所じゃけん誰かがしゅうで、放っからかしてあったところを、それからお便所の掃除を始められた。ところがその不思議な働きが起こって来た。体の上のおかげはなかばってん、商売の上の売上がだんだん増して来たという訳なんです。神様は願った事に対してすぐおかげを下さる事もあれば、でない外の事からおかげにして下さる働きがある。これが気がつかんならいつまでん気がつかんのです。
この病気を直してもらおうと思うて便所の掃除をしよる、ところがこの病気は良くならんけれども、商売の上に売上がだんだん増して来た、これは姉さん不思議なこっちゃある、やっぱり便所の掃除しよるけんじゃろうと言う事になってきた。私共がねさぁ一つの願い事を持って一生懸命お参りをしよる、その願い事そのものは叶うて行きよらん様に見えるけれども、その事よりかもっと他のところへ深く広く、神様の働きが起こっておるのですから、その事に対してしっかりお礼を申し上げなけりゃならない。
それがならだんだん細うても永う続く、だんだん信心をそして頂いておるです、そのおかげがはっきりおかげになって現れて来る様になるから、はぁあれもおかげであったこれもおかげであったと分かる様になる。本当に信心も出来ませんのにこの様なおかげを頂いて勿体ない。もうこれれは私の信心の実感なんです。勿体ない勿体ない。それこそ何でもかんでも拝まにゃおられん。
この頃から一宿一飯のお話をしましたですね、部屋を出らせて頂く時に又部屋の方を、こうやって眺めさせて頂いて、まぁこんなに行き届いた部屋に、一晩休ませて頂いたと言う事が有り難いと、今日もやっぱり拝みよった。そしたら神様からね、この『茗』という字、野菜の茗荷の茗という字、二、三日前、黒板に掲示してあるのがありましょう、妙賀栄える富貴繁盛というあの御理解、その茗という字を頂くんです。草冠に名という字が書いてあります。茗、これは茗荷の茗という字ですね。
私は自然のと言う事はそのまま神様です。だから草冠と言う事は自然と言う事はそのまま神様です。下のこれは名、神様の名においてと言う事です。神の名において。私が部屋を出る時に拝まして頂いておる、眼に入るものまぁね一切のものが眼に入る、その一切のものをだから拝む事になるのです。部屋にあるもの全部のものを拝む事になるのです、お便所を拝み洗面所を拝む、そういう信心が続けられていくとです、洗面所が私を拝む事になってくるだろう、便所が又私を拝む事になってくるだろう。
お部屋を拝みよりゃお部屋そのものが、私拝んでくれる様にになるんです、いうならば神の名においてお前が勿体ない、信心も出来んのにこんなにおかげを頂いてという、そのおかげはそうよ神の名においておかげを下さってある。眼には見えません眼には見えません家が拝んでくれている事も、洗面所が拝んでくれている事も、便所が拝んでくれている事も眼には見えません。けれども私は拝んでおるその拝み返しのおかげというものがです、眼に見えぬおかげをおかげとして拝んでおる事になりますからね。
おかげをおかげとして分からせて頂くのですから、神様が喜んで下さらないはずがない、それこそ神の名においておかげを下さるんです。そういう信心がいうなら続けられて行く限りです、一切の起きてくるなら事柄もですその中にゃ苦い事もありましょう、痛い事もありましょう悲しい事も起こって来るかも知れません。けれどもその事の一つ一つが生き生きとして蘇って来る。どう蘇って来るかというとおかげであったという事に、蘇って来るのです。そういう信心が三年、五年十年と続かせて頂いておる内にです。
そういうあれもおかげであった、これもおかげであったと分かる事になりますから、これからの事だって、例えばどの様な事であっても、それがおかげであるという体験が出来てくる訳です。そこに初めて本当の信者だと言う事になるのです。本当の信者になるならどう言う事になるかというと、本当のおかげが受けられないはずが絶対ないです、私は本当の信心しよりますと言うても、本当のおかげが現れてこないならそりゃ本当のもんじゃない。それこそ勿体のうして勿体のうして。
信心も出来んのにこの様なおかげを受けてと、言う様なおかげが頂けてくる様になるのです。細うてもだから永う続かねば出来ません信心は。しかもその続く過程がです、眼に見えるおかげは勿論ですけれども、眼に見えないところのおかげを拝んでいかなければいけません。してみると自分の周辺の一切を拝んでいかなければいけません。拝む事によって拝み返される働きが起こって来るのです。拝み返されると言う事は、いうならば私が神様を拝んでおると、神様が又私を拝んで下さると言う事になるのです。
表彰状と言った様な事ね、表彰状ち言うて一枚の紙切れもろうたっちゃ大した事なかですばいね(笑)。けれどもそれにはやはり記念品とか、又は金一封が伴のうてくるのです。私が神様を拝むと言う事は、いうならば眼に見えない一切のものを、その働きそのものを拝む、ものも勿論拝む、だからもう本当にですね、金光様の信心ばっかりはもう拝みきる事です。そこになら拝み返されるという働きが起こって来るのです。例えばね自分のこう人間関係でもそうです。
嫌な奴だと思っておるけども、その人を本当にその人のまぁ言うならば、良かところ素晴らしいところを発見して、そこを拝む気になって下さい、向こうも必ず向こうの方から拝んでくる様になるです。はては難儀そのものも拝む、それはどう言う事かというとめぐりそのものを拝む、めぐりと仲良うする信心ぞという意味が分かるでしょう、めぐりそのものを拝む、だからめぐりが又拝んで来る、いわゆるめぐりと仲良うする信心が生まれて来る。眼に見えないものを拝むいわゆる自然の働きそのものを拝む。
暑い寒いそういう働きその大元を拝む、だからその大元から又拝まれると言う事になる。ただ拝まれておるというだけならば、表彰状を頂きよる様なもんです、神様が喜んで神様が本当にあれもおかげこれもおかげと、何でんかんでん拝んでおる姿をご覧になってです、こんないうならばまぁ苦い問題でも嫌な問題であっても、他の者はもう嫌な事だ苦いもんだというて、向こうに跳ね除けるけれども、金光様の信心をするなら、その苦いものでもこんなものでもというのを拝んでいく。
その姿に神様が触れられた時にです、拝んでおるものをまた拝み返して下さる、有り難うと言うて神様が拝んで下さる。例えばお花の名人と言われる様な人はね、もう弟子さん達が皆んな良い花を取って活ける、一番最後に残った花材でお花を活けられて、結局はその先生のお花が一番素晴らしい。これは久留米の何とかという先生のお話なんですけれども、あんた達の良かつで、あんた達の良か材料でお花を活けなさいと言うて、皆んなを活けさしなさる。
そして一番最後に残ったもう普通の者では活けこなし切れない様なものを持って、もう見事に活け上げなさる。私はいっぺんあの石井喜代司さんところに参りました時に、あそこの嫁御の薫りさんというのが、中々お花の天才ち言われる位に上手でした。まぁその後稽古しませんから、手は落ちとりまょうけれども、もう稽古の花の頃は先生がたまがりなさる程しであった。ある時私が参りましたら、昔あそこは酒屋をしよったから、酒樽があった。酒のつの樽があった赤いね角樽というのがりましょう。
その角樽にあのヤツデの葉の枯れたのが、もうそれこそもうぼっと息を飲むごと素晴らしく活けてあったです。したら表を掃除しよったら向かいに大きな家がある、もう道の方にヤツデの枯れたのが一杯散らかっとる。それをはわきよる内にこりゃあ花の材料になると思うて拾うできてから、それを活けられておる。もうそれがもう本当に息を飲む程素晴らしく活けてあった。もういうならはわきだめ行きですよね、普通のもんだだったら。ところが薫りさんの目には素晴らしい花の材料に見えた訳です。
ある時に福岡で花の展覧会があった、そん時にまだ娘の時です、それからお願いに来た、そしたら神様からわざわざ花屋から買わんでん、裏の山に行ってそのう然のもんを持って活けたらよかろうと言う事であったから、それこそすぐ裏の山に剪定鋏を持って登った。そして薮の中にこうやって立たせて頂いて、こうあちらこちら四方見回したらね、これも花の材料になるあれも花の材料になると言った様に、どれもこれもが花の材料になる物ばかりに見えたというのです。そしたら薮の中で感動が湧いて、暫くそれこそどうにも仕様がなかったというお届けした事があるのです。
どう言う事だと思いますか。皆んなが気が付かない所が薫りさんの目で見ると、その薮の中にある薮の草もありゃあ木もあるでしょうが、みんな花の材料になる物ばっかりだねと思うたら感動が湧いて来た、これが天地の親神様の感動だと思います。そこに転がっている小石一つでも、それこそ薮の中にあるなら雑草でも、天地の親神様がお作りになっておられる。それをあれも活かされる。これも活かされるとその活かす事を思うただけで感動しとる。いうならば神様が感動ましましておられる。
だから自分の周辺の一切のものがです、神様の御働きそのものとして、それを拝ませて頂く時にです、神様が感動してこちらに感動してお礼をいうて下さる筈です。そういう事が細うても永う続くのですから、ただ神様が喜んで下さるというだけならば、表彰状だけの様なもんだけれども、その表彰状にはおかげというれっきとした働きが起こって来るのです。それが言うならば繁盛に繋がって来る、金光様の信心をしておれば、細うても永う続いてさえおればです。
そしていうならば眼に見えるおかげより、眼に見えないおかげと言う様な事が分かって、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労させんと仰る様に、この方の道は有り難い有り難いで開けた道じゃから、有り難いでは苦労させん、いや有り難いおかげを又授けて下さるという働きが起こって来るんです。金光様の信心は実にだからその地味というかね、地味深い味わいというものがあるのです。先ず一つ自分の周辺の全ての事を。又は全てのものをいや眼に見えないその事でも。
自然の働きそのものを拝む生き方を、いよいよ身に付けていかなければいけません。神の名において神様が下さるおかげ、人間の名において下さるおかげて大した事はない、けれども神の名において下さるおかげはもう無尽蔵、無限限りがないいわゆる繁盛に繋がって行くというのは、そう言う事だと私は思う。本当にあれもおかげであったこれもおかげであったと、分かる様になると本当の信心だと仰るのですから、もう本当の信者になる時に、本当のおかげが立ち現れて来ない筈がありませんよね。
どうぞ。